修身(しゅうしん)とは身を修めることを意味し、日本の明治時代から昭和時代前期における小学校と国民学校で設けられた教科のことである。
修身は大東亜戦争(太平洋戦争)後の道徳に相当するものとも考えられるが、大日本帝国の臣民(国民)の育成を目的におこなわれ、筆頭教科に位置付けられていた。昭和時代前期においては皇国の道にのっとることが学校教育の目的に含まれるようになり、皇民化教育の一翼をになった。
戦後の道徳の時間については、教科用図書(教科書)が設けられず、各教員が工夫して行うことが求められていることに対して、修身では善悪を個別に明示するという徳目主義であったとされ、○×式の試験もおこなわれたといわれる。[要出典]
敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) は国史・地理と並んで修身が軍国主義教育とみなし、授業を停止する覚書きを出した。1950年代に入り、戦前回帰を志向する「逆コース」の流れの中で、理性ある社会人を育てるものとして改めて復活したのが「道徳」である。
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日本は明治維新によって近代国家としてのあゆみを始める[1]のだが、明治政府は教育に関して当初から困難を抱えていた[2]。 それは教育の中心を国学、漢学(儒学)、そして洋学のどれにすえるのかという問題である。 政府は王政復古の理念に従って国学を中心にすることを考えるが、これには漢学派が反対して折り合いがつかず、 結局、各学派の主導権争いのすえ「実学性」に富んだ洋学を主体とすることになった[3]。 そして、このような考えのもと、1873年(明治4年)に文部省が設置され、翌年には『学制』が制定された[4]。 この1874年の学制の制定をもって日本における近代学校制度が発足したとされる[1][5]。 なお、この学制の起草委員である「学制取調掛」はそのほとんどが洋学者であった[3]。
この学制に先立って、学制の精神理念を示す『学制奨励に関する被仰出書』(以後は単に被仰出書と呼ぶ)が太政官布告の形で宣言され、その内容は
人々の立身出世のために、学校では学問を授ける。
学ぶべきこととは、単なる文章の暗記などではなく、読み書き・算数の知識であり、これは誰もが必要とするものである。
全ての人が学校に通い学ぶ必要がある。
というものであった[1]。 この被仰出書は福沢諭吉の『学問のすすめ』の影響を受けていると考えられており、それゆえ啓蒙主義的な内容となっている[3]。 しかし、明治政府は一般大衆のための学校を整備しようとしていたわけではなく[3]、中央集権的体制の確立や国家の富強安泰を目的としていた[6]。 つまり、このとき、すでに近代日本の国家主義的な流れが存在していたことが分かり[3]、 また、この学制の「立身出世主義」が後の学校教育の発達をゆがんだものにしたといわれている