2009年06月30日

保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの

この頃の中国共産党内部は、保守派の長老によって総書記の座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日にゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。
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5月17日夜、ゴルバチョフが公式日程を終えて帰国したことを受け、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人による常務委員会が開かれ戒厳令を発令することについて話し合われ、趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が棄権したため結論が出ず、改めて党長老で事実上の最高権力者である鄧小平を含めた会議が行われた[4]結果、5月19日に北京市内に戒厳令が敷かれることが決定された。

5月19日午前5時頃、当時党中央弁公庁主任を務めていた温家宝を連れてハンストを続ける学生を見舞う中で涙を見せ「党の分裂を示唆した」趙紫陽は、先の政治局常務員拡大会議で「動乱を支持し、党を分裂させた」として、事実上党内外の全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消すことになる。
5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令治視の報告を行った。党中央、国務院、全人代、中央軍事委員会、中央顧問委員会、中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部及び、党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講和は楊尚昆が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を訴える講話を行った。


2009年06月12日

オートポイエーシス (autopoiesis) は

オートポイエーシス (autopoiesis) は、1970年代初頭、チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・バレーラにより、「生命の有機構成 (organization) とは何か」という本質的問いを見定めるものとして提唱された生命システムの本質に迫ろうとする概念である。 特に細胞の代謝系や神経系に注目した彼らは、個別の物質を越えたシステムそのものとしての本質的な特性を、円環的な構成と自己による境界決定に認めた。 現在では、このような自己言及的で自己決定的なシステムを表現しうる概念として、元来の生物学的対象を越えて、さまざまな分野へ応用されている。 なお、オートポイエーシス という語はギリシャ語で自己製作 (ギリシャ語で auto, αυτό は自己、poiēsis, ποίησις は製作・生産・創作) を意味する造語であり、日本語ではしばしば自己創出、自己産出とも書かれる。

マトゥラーナとバレーラはオートポイエーシス的システムを以下のように定義している。

「オートポイエーシス的システムとは、以下のような構成要素を生み出す構成要素の生成 (変換、破壊) の過程の、境界をもつネットワークとして組織される(ある統一的単位として定められる)。 (1) [オートポイエーシス的システムは] それら [構成要素] の相互作用と変換とを通じて、それら [構成要素] を生み出した過程 (関係) のネットワークを持続的に再生成し実現する。 (2) [オートポイエーシス的システムは] 構成要素が存在する空間内で具体的な実体としてそれ (システム) を構成するが、それは、このようなネットワークとしてその [システムの] 実現の位相的 (topological) な領域を指定することによってである。」(Varela, 1979; Maturana and Varela, 1980 より訳出)
ここでは、システムの構成要素の作動の過程が最終的にその構成要素自体を作り出す円環的な組織的特性が指摘されているのと同時に、そのことによってネットワークが自己とそうでないものとの境界を自ら決定づけるものであるとされていることが特徴である。

円環的構成という点において、オートポイエーシス的システムは、アロポイエーシス (allopoiesis, 異種の産出の意) 的システムと対比できる。 例えば、アロポイエーシス的システムである自動車工場では、自動車 (組織化された構造) を作り出すために部品 (構成要素) を用いるが、そこで作り出される物 (自動車) は、それを作り出した物 (工場) とは別である。 一方、細胞では、核酸や酵素、代謝物のような様々な生化学的な構成要素からなり、細胞内の組織化された構造を作り上げているが、物質とエネルギーの外部との交換に基づいて作動しているこれらの構造は、その構造を維持しつづけるようにその構成要素を絶えず生成または分解している。 このような観点を採るとき、システムにとっては自己維持のみがその機能であり、それ以上でも以下でもないとみなすことができる。

さらに、オートポイエーシスの観点では、そうした過程全体の円環的な構造によってある閉包領域、操作的閉包 (operational closure) を作り出しており、それによってシステムと環境とを自ら区別していると考える。 こうしたシステムによるシステムの決定という観点は、オートポイエーシスという概念を利用することが、そうしたシステムの自律決定と、それを観測し記述することとの間をメタレベルで捉える視点を要求し、認識論的含意を無視されざるものとしている。
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このように自己言及的な組織構成に着目したとき、外部とやりとりされる物質やエネルギーは、通常この操作的閉包をなしている組織構成そのものにはそれを決定するような情報も原因も与えない。 もし、外部の影響が組織構成を破壊するようなものならば、それは単にシステム自体の崩壊、すなわち死を意味するだけである。 マトゥラーナとバレーラは、オートポイエーシス的システムにおいて、外部が組織構成を決定するようなものではないということを、オートポイエーシス的システムは入力と出力を持たないと表現した。 これは観測者がシステムと環境との区別を設けた上で、それらの入出力に注目する通常のシステム観とは鋭く対立するものである。

2009年06月08日

修身(しゅうしん)とは身を修めることを意味し

修身(しゅうしん)とは身を修めることを意味し、日本の明治時代から昭和時代前期における小学校と国民学校で設けられた教科のことである。

修身は大東亜戦争(太平洋戦争)後の道徳に相当するものとも考えられるが、大日本帝国の臣民(国民)の育成を目的におこなわれ、筆頭教科に位置付けられていた。昭和時代前期においては皇国の道にのっとることが学校教育の目的に含まれるようになり、皇民化教育の一翼をになった。

戦後の道徳の時間については、教科用図書(教科書)が設けられず、各教員が工夫して行うことが求められていることに対して、修身では善悪を個別に明示するという徳目主義であったとされ、○×式の試験もおこなわれたといわれる。[要出典]

敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ) は国史・地理と並んで修身が軍国主義教育とみなし、授業を停止する覚書きを出した。1950年代に入り、戦前回帰を志向する「逆コース」の流れの中で、理性ある社会人を育てるものとして改めて復活したのが「道徳」である。
仏壇 リラク 家具 楽器教室 ギフト 学校 交通 理容 中国四国 矯正 雇用 旅行 旅行代理店 キャッシング 介護 自動車 健康 古着 予備校 動物園 スクール 宿泊施設 脂肪吸引 SOHO バスト 税理士 興信所 健康 生命 生活習慣病 アクセサリー 専門学校 健康 贈答品 セミナー 旅館 パソコン 北海道東北 養毛 起業 税理士 建売 警備 健康 健康食品 生活習慣病 通信販売 学習 地域情報 家庭教師

日本は明治維新によって近代国家としてのあゆみを始める[1]のだが、明治政府は教育に関して当初から困難を抱えていた[2]。 それは教育の中心を国学、漢学(儒学)、そして洋学のどれにすえるのかという問題である。 政府は王政復古の理念に従って国学を中心にすることを考えるが、これには漢学派が反対して折り合いがつかず、 結局、各学派の主導権争いのすえ「実学性」に富んだ洋学を主体とすることになった[3]。 そして、このような考えのもと、1873年(明治4年)に文部省が設置され、翌年には『学制』が制定された[4]。 この1874年の学制の制定をもって日本における近代学校制度が発足したとされる[1][5]。 なお、この学制の起草委員である「学制取調掛」はそのほとんどが洋学者であった[3]。

この学制に先立って、学制の精神理念を示す『学制奨励に関する被仰出書』(以後は単に被仰出書と呼ぶ)が太政官布告の形で宣言され、その内容は

人々の立身出世のために、学校では学問を授ける。
学ぶべきこととは、単なる文章の暗記などではなく、読み書き・算数の知識であり、これは誰もが必要とするものである。
全ての人が学校に通い学ぶ必要がある。
というものであった[1]。 この被仰出書は福沢諭吉の『学問のすすめ』の影響を受けていると考えられており、それゆえ啓蒙主義的な内容となっている[3]。 しかし、明治政府は一般大衆のための学校を整備しようとしていたわけではなく[3]、中央集権的体制の確立や国家の富強安泰を目的としていた[6]。 つまり、このとき、すでに近代日本の国家主義的な流れが存在していたことが分かり[3]、 また、この学制の「立身出世主義」が後の学校教育の発達をゆがんだものにしたといわれている

2009年04月24日

レオンハルト・オイラー

レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。少なくとも数学に関しては18世紀最大・最高の数学者である。スイスのバーゼルに生まれ、現在のロシアのサンクトペテルブルクにて死去した。

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オイラーの父も数学の教育を受けた人物であったが、父はオイラーに自分の後を継いで牧師になることを望んでいた。しかしオイラーはヨハン・ベルヌーイによって才能を見いだされ、オイラー自身の数学への興味もあって数学者になる道を選んだ。1727年に、オイラーはサンクトペテルブルクのアカデミーでダニエル・ベルヌーイの同僚となった。この地で、彼はバーゼル問題を解決したことで有名になった。だが、エカチェリーナ1世の突然の死でロシアは政情不安となり、視力の悪化も伴って、研究生活は不安定なものとなった。1741年、プロイセン王国のフリードリヒ2世の依頼でベルリン・アカデミーの会員となり、ドイツへ移住。彼は『無限解析入門』 "Introductio in analysin infinitorum" と『微分学教程』 "Institutiones calculi differentialis" という2冊の数学書を出版した。また、オイラーはアルンハルト=デッサウ公女の教育のために科学への入門書を執筆し、その後、『自然科学の諸問題についてのドイツ王女へのオイラーの手紙』 "Lettres à une Princesse d'Allemagne sur divers sujets de physique et de philosophie" として出版された。この本は欧米で一般の読者を対象にした科学書として広く読まれ、オイラーのもっとも有名な著書となった。ベルリン・アカデミーには、ヴォルテールもいたが、二人が親密になることはなかった。エカチェリーナ2世が帝位についたことで、オイラーは再びサンクトペテルブルクに戻った。1771年ごろには失明したものの、彼は精力的な研究生活を最後まで続けた。

2009年04月07日

70年代のロンドン・パンクシーン

ガレージロックは70年代のロンドン・パンクシーンに大きな影響を与えたが、1980年に入りヘヴィメタル、ニュー・ウェイヴ/テクノが全盛を迎え、ヘヴィメタル人気が落ち着いた1990年代も多彩な機材を用いた凝った音作りが業界の主流となり、簡易なコード進行とシンプルな機材を用いるガレージロックは一旦下火となった。勿論アンダーグラウンドではこの時期にもあまたのガレージロックバンドが活躍していたわけではあるが、市場としてはさして大きなものではなく、また、1990年代にシアトルで起こったグランジムーブメントの旗手ニルヴァーナもガレージロックの影響を受けていたが、その後のオルタナティブロック・ムーブメントにおいての影響力はさして大きなものとはいえなかった。更に90年代後半にはヒップ・ホップ、R&Bが全盛を迎えロック自体が下火となる。

ところが2000年代になり、ザ・ストロークス、ザ・ホワイト・ストライプス、ザ・リバティーンズ、ザ・ヴァインズ、ザ・ハイヴスなどの台頭によりガレージロックは主にヨーロッパ、日本で再び日の目を見ることとなった。このことから2000年初頭の日英におけるガレージロック・ポストパンクの再評価ブームは「ガレージロック・リバイバル」、「ポストパンク・リバイバル」または当時下火になっていたロックを復活させたことから「ロック・リバイバル」とも呼ばれる。この現象は80年代中期?90年代の作りこみ過ぎた音楽や、世紀末にかけてのレディオヘッドやコールドプレイなどの内省的で陰鬱な音楽へのアンチテーゼであるといわれ、ロックの初期衝動への回帰であると論じられたが、現実にはヒップ・ホップやR&Bの台頭で売り上げの落ちていたイギリスや日本のロック専門誌によって持ち上げられた側面もあった。しかし00年代中期以降はヒップ・ホップの人気が以前に比べ下火になり、結果的にロックとヒップ・ホップの売り上げの再逆転現象が起こっており、ロック・リバイバルは00年代における大きなムーブメントの一つとして定着した感がある。

また、ガレージロック・リバイバルは世界的な現象であり、アメリカ、イギリスに限らず、オーストラリアやニュージーランドなどのオセアニアのバンドやスウェーデンなどの北欧のバンドが活躍したことも大きな特徴である。

日本では2009年初頭にコンピレーション・アルバム『NEXT ROCK ON -ROCK'N ROLL REVIVAL』[1]、『UNDER CONSTRUCTION 〜rock'n' roll revival from Tokyo!!!〜』[2]がリリースされた。

ガレージロック・リバイバルにおける主要な作品 [編集]
1960年代のガレージロック・ムーブメントとは異なり、リバイバルのバンドは基本的にメインストリームを視野に入れた活動がメインであるため、セールスにも恵まれている。

代表的作品として最もよく挙げられるのはザ・ストロークスの1stアルバム『イズ・ディス・イット』であり、本国アメリカではなく英国で先にブレイクし、その後のガレージロック・リバイバルの後進バンドに大きな影響を与えた。その作風は、同じくニューヨークから生まれたヴェルヴェット・アンダーグラウンドやテレヴィジョンなどに通じる独特の雰囲気を持っていると評価されながら非常にシンプルなことが特徴であり、楽曲の高度な構築性や演奏力にとらわれずとも生み出された評価の高い作品という意味で、後進の若いバンドの登場に貢献したと言える。実際に、これ以降のガレージロック・リバイバル、ポストパンク・リバイバルの若者バンドのその大半は、ストロークスからの影響を公言している。これらは簡潔なロックによる若者へのロック回帰という意味で、70年代パンクとの類似性を指摘されることも多い(ちなみに70年代ロンドン・パンクの源流はニューヨークを中心に発祥したオリジナル・パンクにあり、本国アメリカでは大してヒットせずにイギリスで爆発したことも同様である)。

その他にはザ・ホワイト・ストライプスの4thアルバム『エレファント』など、元はアンダーグラウンドを主体に活動していたアーティストの中で、ムーブメントによってメジャー入りし高い評価を受けた作品も多いが、これらは若者へのロック回帰というよりもむしろベテランミュージシャンによる完成度の高い作品としての評価の意味が強い

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2009年03月23日

2021系(現・2071系)

本系列は、1963年の神戸線と宝塚線の架線電圧昇圧(600V→1500V)決定に伴って製造された2000系の複電圧対応型である。

1964年までに電動車である2021形と制御車および付随車である2071形が各21両ずつ、合計で42両が製造された。車両番号は2000系の続番で、それぞれ2021?2041・2071?2091と付番されており、これが系列名の由来になっている。
富有柿 クイッ リブート フットサ ラインス メスズ ファズ検索 ドックス イエロ ウィン だんがい ダーティー セント テープ サーチケ パラノイ モーゲージ ユーロ ムード ニュース チロロ レチノ サキソニ リピー プブック ヘデラ みそぎ タンバ 天王寺 火の鳥 イツァ タンタル はしゅ バイヤヤー レディネス フライト スロイス トレモロ 超特急 こたん はたけやま 応和 サウス テーベ シャレ トゴス スコッチ リーデー オフェンス ゲンノシ

機器の対応電圧の変更は、車庫あるいは工場で各車の床下に取り付けられた主回路や補助回路の切り替えスイッチの切り替えあるいは端子板の結線変更によって実施する方式であり、710系のような電圧転換器を車上から操作する方式でなかったため、走行中の電圧変更はできなかった。また、2000系と同等の定速運転機能も装備していたが、電気関係、特に主制御器の構造が極めて複雑で保守に問題があったために、以降は比較的構造が単純な3000系・3100系の製造に変更され、1年で増備は終了した。

最初の1編成(2021?2023・2071?2073)は神戸線初の6両貫通編成で投入された他、4両編成・2両編成各2本(2031?2036・2081?2086)が汽車製造製のエコノミカル・トラックと称する1自由度系空気バネ台車を装備して竣工、新型ドアエンジンの実車試験が行われるなど、車両数に比してバリエーションの豊富な系列であった。

複電圧構造を活かして、昇圧後しばらくの間は定速運転機能、回生ブレーキ機能を残したまま神戸線と宝塚線で使用されていたが、輸送力増強の一環で編成の増車が行われるにあたり、構造が複雑な本系列は電動車を電装解除の上、全車が他系列の中間付随車への転用が図られることとなった。転用改造は1970年に始まり、まず神戸線所属編成の中間車が2000系と3000系に組み込まれ、残った先頭車は8両編成を組んで宝塚線に転属した。1977年にはエコノミカル台車を履いた12両が5000系増結用として改造されるなどして徐々に数が減ってゆき、1979年の箕面線での運用を最後に本系列の単独編成は消滅した。

当初、5000系に連結された車両を除き運転台(すでに機能を喪失していたが)や2021形の番号は改造前のままであったが、これらについては組み込み先編成の冷房改造の際に運転台撤去と原番号+150が行われ、2171形2171?2191に改番された。しかし、最後の非冷房車であった2030は1984年に先述の六甲事故で2000系2050となった2100系2154の代替として2171形へ改番されずに能勢電鉄に譲渡されることになり、運転台の撤去と冷房化改造を行った上で1500系(1580形)となった。この時に2030は完全な中間車形態に改造された。

その後も2000系?5000系の中間車として使用されていたが、1989年に上記の8000系投入による組み込み先編成の支線転用が行われると編成短縮によって余剰となる車両が発生した。この時に製造時からの中間車は編成替えによって温存が図られ、4両が組み込み先である2000系編成ごと能勢電鉄に譲渡されて同社の1700系(1780形)に改造された以外は全車残存している。これに対し、元先頭車9両はこれらと交代する形で廃車となっている。

1995年には2087が阪神・淡路大震災による伊丹駅崩壊に巻き込まれて廃車、2171が3000系3022へ改造・改番[25]され、2両の減少があった。

1999年には2091が5200系最後の編成とともに、2000年には2088が製造時から中間車では初の廃車となった。これ以降温存策が採られることはなくなり、同年からの5000系のリニューアルでは車体形状とは無関係に大量の廃車[26]が発生するようになっている。

現在、阪急での在籍数は休車となっている車両を含めて(車籍を失った物を除く)2075・76・79・85・90、2175・76・79・84・88・90・91の12両までに減少している。

2009年03月07日

クリーブランド級軽巡洋艦

クリーブランド級軽巡洋艦(クリーブランドきゅう けいじゅんようかん、Cleveland class Light Cruisers) はアメリカ海軍の軽巡洋艦の艦級。クリーブランド級に改良型のファーゴ(CL-106)以降を含む資料も存在する。

1937年にロンドン海軍軍縮条約が失効したため巡洋艦の保有制限がなくなった。アメリカ海軍は当クリーブランド級52隻の建造を計画し、39隻が発注されたが、軽巡洋艦として完成したのは27隻であり、3隻は建造中止。9隻は建造中の船体を流用して軽空母として完成し、インディペンデンス級航空母艦となった。

基本的にブルックリン級軽巡洋艦の船体設計を受け継いでいるが、若干幅を広げ、後楼も大型化した。武装はブルックリン級の47口径6インチ3連装5基15門から4基12門に減少し、逆に38口径5インチ砲は単装8基8門から連装6基12門に増加したので、前級に比べれば対艦と対空兵装のバランスが取れた仕上がりになった。
天の浮橋 ワインレッド ルバーブ 優しい響き マナー スピネル うむら タルブロク ドライブ ドマリエ スペツナズ シルク ダンネージ タイフーン かきょう ストリ 薪の音 次世代 スコア ロッジ まいこ ギャンブ リプリン リマーク しまやま フィト マリッジ ラニン オダマキ ジンバク ステップ フリー ストック ムッシュー かまど シンボリ トルクア ブルネイ メクチュ ライト ノッブ ソンブ 道のつづき ミノス マキシム データ ラチア ビンゴ シャド マキザサ

本級のクリーブランド、コロンビア、モントピリア、デンバーは水上戦闘部隊の手駒が切れかかっていた時期の1943年11月2日、ブーゲンビル島攻略支援に第39任務部隊の主力として投入された。日本海軍は天候不良とアメリカ軍に察知されたため逆上陸作戦を中止していたが、第39任務部隊の撃滅を目指し、エンプレス・オーガスタ湾に突入してきた。クリーブランド級4隻は悪天候の中、レーダー射撃を有効に利用して日本連合襲撃部隊に打撃と混乱を与え、川内と初風を撃沈した。体勢を整えた日本海軍はデンバーと駆逐艦2隻が損傷させたが、煙幕を張って回頭したアメリカ艦隊を撃破、撃沈したものだと誤認して退却した。重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻の有力な艦隊に対してクリーブランド級4隻、駆逐艦8隻という劣勢状況下で1隻の沈没なく日本海軍を撃退したことは当級の優秀さが伺える。ソロモン近海の制海権はアメリカ海軍が堅持し、この海戦の約一週間後にはギルバート・マーシャル攻略が開始された。

順次、竣工したクリーブランド級は空母機動部隊の護衛や上陸戦の火力支援(艦砲射撃)などに従事し、アメリカ海軍の反攻を影から支えた。

戦後、1959年から1974年にかけて大半の艦はスクラップとして解体されたが、スプリングフィールド、トピカ、プロビデンス、オクラホマシティ、リトルロック、ガルベストン等はミサイル巡洋艦(ガルベストン級ミサイル巡洋艦)に改装され、1960年代も現役だった。また、ヴィンセンス、ウィルクス・バール、アトランタの3隻は実験艦、標的艦として使用、処分された。

同型艦
クリーブランド (USS Cleveland, CL-55)
コロンビア (USS Columbia, CL-56)
モントピリア (USS Montpelier, CL-57)
デンバー (USS Denver, CL-58)
アムステルダム (USS Amsterdam, CL-59) :CVL-22に変更
サンタフェ (USS Santa Fe, CL-60)
タラハシー (USS Tallahassee, CL-61) :CVL-23に変更
バーミングハム (USS Birmingham, CL-62)
モービル (USS Mobile, CL-63)
ヴィンセンス (USS Vincennes, CL-64)
パサデナ (USS Pasadena, CL-65)
スプリングフィールド (USS Springfield, CL-66)
トピカ (USS Topeka, CL-67)
ニュー・ヘヴン (USS New Haven, CL-76):CVL-24に変更
ハンチントン (USS Huntington, CL-77):CVL-25に変更
デイトン (USS Dayton, CL-78) :CVL-26に変更
ウィルミントン (USS Wilmington, CL-79):CVL-28に変更
ビロクシー (USS Biloxi, CL-80)
ヒューストン (USS Houston, CL-81)
プロビデンス (USS Providence, CL-82)
マンチェスター (USS Manchester, CL-83)
バッファロー (USS Buffalo, CL-84):建造中止
ファーゴ (USS Fargo, CL-85):CVL-27に変更
ヴィックスバーグ (USS Vicksburg, CL-86)
ダルース (USS Duluth, CL-87)
未命名 (CL-88) :建造中止
マイアミ (USS Miami, CL-89)
アストリア (USS Astoria, CL-90)
オクラホマシティ (USS Oklahoma City, CL-91)
リトルロック (USS Little Rock, CL-92)
ガルベストン (USS Galveston, CL-93)
ヤングズタウン (USS Youngstown, CL-94) :建造中止
バッファロー (USS Buffalo, CL-99) :CVL-29に変更
ニューアーク (USS Newark, CL-100) :CVL-30に変更
アムステルダム (USS Amsterdam, CL-101)
ポーツマス (USS Portsmouth, CL-102)
ウィルクス=バール (USS Wilkes-Barre, CL-103)
アトランタ (USS Atlanta, CL-104)
デイトン (USS Dayton, CL-105)

2009年02月19日

ヨークタウン (CV-5)

ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) は、アメリカ海軍の航空母艦。ヨークタウン級航空母艦のネームシップ。その名を持つ艦としては三隻目。ミッドウェー海戦で沈没した。愛称は「オールド・ヨーキィ」

ヨークタウンは1934年5月21日にバージニア州ニューポート・ニューズのニューポート・ニューズ造船所で起工した。1936年4月4日にエレノア・ルーズベルトによって進水され、バージニア州ノーフォークの海軍作戦基地において1937年9月30日に初代艦長アーネスト・D・マクウォーター大佐の指揮下就役した。
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艤装完了後ヨークタウンはバージニア州ハンプトン・ローズで慣熟訓練を行い、1938年1月にはバージニア岬沖で新たに配備された航空団の訓練を行った。

1938年1月8日にカリブ海へ出航し、プエルトリコのクレブラに1月13日到着した。続く一ヶ月にも及ぶ試運転の間にヴァージン諸島セント・トーマス島のシャーロット・アマリィ、ハイチのゴナイブ、キューバのグァンタナモ湾、パナマ運河地帯のクリストバルを訪れた。クリストバルのコロン湾を3月1日に出航し、ハンプトン・ローズに6日に帰港した。翌日調整のためノーフォーク海軍工廠へ移動する。

1938年の秋いっぱいを使って修理と調整が行われ、ヨークタウンは10月17日に海軍工廠からノーフォーク海軍基地へ移動し、またすぐに南方に向かい訓練が繰り返された。

ヨークタウンは東海岸を拠点としてチェサピーク湾からグアンタナモ湾までの範囲で作戦行動を行う。1939年には第2空母部隊の旗艦として最初の対抗演習「 Fleet Problem XX 」に姉妹艦エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) と共に参加した。その演習の様子は重巡洋艦ヒューストン (USS Houston, CA-30) に乗艦したフランクリン・ルーズベルト大統領に目撃されている。

演習が終了するとヨークタウンは4月20日にハンプトン・ローズに帰還する。一週間後にパナマ運河を通過して太平洋艦隊に合流、定期的な作戦行動に入る。1940年はカリフォルニア州サンディエゴを拠点として活動し、同年4月には演習「 Fleet Problem XXI 」に参加した。

「 Fleet Problem XXI 」での結論でハワイ水域の艦隊勢力を維持するため、ヨークタウンは翌年の春までアメリカ西海岸、ハワイ海域で活動した。しかしながらドイツ海軍のUボートによる成功は、アメリカの海軍力変更を要求することとなった。大西洋艦隊強化のため、海軍はヨークタウンを含む主要戦力を移動させることとなる。

ヨークタウンは駆逐艦ウォリントン (USS Warrington, DD-383) 、ソマーズ (USS Somers, DD-381) およびジョーエット (USS Jouett, DD-396) と共に1941年4月20日に真珠湾を出港、パナマ運河を5月6日、7日に通過しバミューダに12日到着する。このときからアメリカ海軍は戦争状態に突入し、ヨークタウンはニューファンドランドからバミューダへかけての範囲を4回偵察し、アメリカが中立でいる間に17,642マイルを航海した。

第二次世界大戦
日本海軍による真珠湾攻撃で、アメリカ太平洋艦隊は大敗を喫する。無傷の空母は戦略的な重要性を持つこととなる。1941年12月7日の時点で太平洋に配備されていた空母はエンタープライズ、レキシントン (USS Lexington, CV-2) 、サラトガ (USS Saratoga, CV-3) の三隻で、レンジャー (USS Ranger, CV-4) 、ワスプ (USS Wasp, CV-7) 、そして就役したばかりのホーネット (USS Hornet, CV-8) は大西洋にいた。ヨークタウンは1941年12月16日にノーフォークを出港し、太平洋に向かった。ヨークタウンには新たな20mmエリコン機銃が増設されていた。1941年12月30日にサンディエゴに到着し、新たに形成されたフランク・フレッチャー少将率いる第17任務部隊の旗艦となる。

ヨークタウンの太平洋での最初の任務はアメリカ領サモアへ海兵隊増援軍を運ぶ部隊の護衛であった。1942年1月6日にサンディエゴを出港し、ヨークタウンおよび僚艦はトゥトゥイラとパゴパゴへ向かう艦隊を警護した。

ヨークタウンとエンタープライズは1月25日にサモア海域に展開し、任務を遂行した。六日後にエンタープライズを中心に第8任務部隊が形成され、ヨークタウンを中心に第17任務部隊が形成された。第8任務部隊はマーシャル諸島に向かい、第17任務部隊はギルバート諸島に向かう。

珊瑚海海戦
珊瑚海海戦においては日本機の至近弾によって損傷を受け燃料漏れを起こし、帰投不能に陥りかけるも、無事真珠湾に帰投した。 この戦いでは僚艦レキシントンを失った。 またこの時瑞鶴の嶋崎少佐が母艦である瑞鶴と間違えて、投光器による国際信号で着艦の許可を得て、250kg爆弾を投棄しヨークタウンに対して着艦体制に入るという珍事が発生している。

ミッドウェー海戦
真珠湾のドックに入る空母ヨークタウン。1942年5月17日に、修理に最低90日かかると報告されていたヨークタウンを帰港後の調査で早期戦線復帰が可能であれば最低限の修理を真珠湾で行い戦列復帰させることが決定、これに伴い修理に必要な物資が大至急でかき集められた。ちなみにこの時集められた物資の中には酒保で使用する冷凍機や酒も含まれていた。27日に真珠湾に帰港すると、太平洋艦隊司令長官チェスター・W・ニミッツ大将が直接損傷状況検分を行い、応急措置を施せば戦列復帰は可能と判断、3日で修理を行うよう命令した。修理は24時間体勢の突貫工事で、破損箇所に鋼板をツギハギで溶接、換気不十分で艦内温度が48.9℃の蒸し風呂状態といったいささか乱暴なものであったが、オアフ島の一部を停電にして海軍工廠に電力を優先に供給するよう調整するなど全面バックアップが取られ、2日後の29日11:00には穴は完全に塞ぎ終わりドックの外へ出す事が出来るまでに回復された。

同時に連戦続きで101日に渡って正規の補給無しで払底していた物資も大急ぎで補給された。ある砲術科の下士官は48時間ぶっ通しで爆弾搭載作業に当たったとの回想が残っている。一番重要な艦載機については珊瑚海海戦で消耗した第5雷撃隊(VT-5)と第5偵察隊(VS-5)は下ろされサラトガの飛行隊であった第3戦闘機隊(VF-3)、第3爆撃隊(VB-3)、第3雷撃隊(VT-3)が搭載された。残る元々の搭載機のうち第42戦闘機隊(VF-42)はVF-3に組み込まれ、第5爆撃隊(VB-5)は第5偵察隊(VS-5)と改称された。最終的に艦載機は

戦闘機:F4Fワイルドキャット25機。隊長:ジョン・S・サッチ少佐
爆撃機:SBDドーントレス37機。隊長:マックスウェル・レスリー少佐
雷撃機:TBDデバステーター12機。隊長:ランス・マッセイ少佐
となった。この時戦闘機は従来のF4F-3から新たにF4F-4が搭載されたが、F4F-4を整備した事がある整備士も整備マニュアルもなく整備は難航を極め、出航後も突貫で整備された。またパイロットも照準器の調整が必要、機銃を2門追加した事による運動性低下に対する完熟飛行は無し、都合3空母のパイロットの寄せ集めで1つの部隊としての訓練も無しという状態であった。日本軍が損傷軽微の瑞鶴の修理を急ぎ、翔鶴の飛行隊と併せれば何とか一隻出せる状態だったにもかかわらず、飛行隊を別の母艦に移すのは連携に難があるという理由と、そこまでしなくても楽勝という驕りから実現しなかったのとは対照的である。

最終的に機関部はボイラー全9基のうち6基が回復、30ノットが出せるようになり、5月30日8:00に司令官フレッチャー少将を乗せ真珠湾を出航した。

ミッドウェー海戦においては僚艦二隻の航空隊とともに日本軍の空母赤城、加賀、蒼龍を攻撃、撃沈する戦果を挙げるが、残る飛龍の航空隊の反撃にあって大破した。空襲終了後、消火作業に成功しハワイに向けて戦場から退避準備をしていたが、連絡を受けて遅れて戦場に入った日本潜水艦伊一六八によって6月7日午前4時ごろに発見された。総員は既に退避した後で、救援の駆逐艦より140名もの救助隊が乗り移り、駆逐艦ハムマン (USS Hammann, DD-412) を横付けして復旧作業の最中で、すでに機関も回復し自力航行も可能になりつつあった。厳重な警戒態勢であったが、伊一六八はその場で360度旋回をしたり、ヨークタウンや駆逐艦の真下を通過するなどして距離を計り、発見から9時間後の6月7日午後1時に4本の魚雷が発射された。ヨークタウンには2発の魚雷が命中。ハムマンにも1発命中し(伊一六八はハムマンの存在には気づいていなかった)、ハムマンは轟沈した。

護衛の駆逐艦からの反撃は熾烈を極め、伊一六八も大きな損傷を受けたが現場からの退避に成功した。ヨークタウンが沈没したのは、6月8日の午前六時ごろであったといわれる。処分の為に米駆逐艦から魚雷が打ち込まれたという記載もある。

ヨークタウンは第二次世界大戦での戦功により3つの従軍星章を受章した。2つは日本の拡張を止めるのに大きな役割を果たしたことに対して与えられ、もう1つは珊瑚海海戦とミッドウェー海戦での功績に対して与えられた。

伊一六八は、その後の戦闘によって戦没。しかし艦長は他の潜水艦に転勤となっていたため終戦まで生き延びた。戦後GHQからヨークタウン攻撃について執拗な調査があり、その慎重かつ大胆な攻撃方法に調査を担当した米兵も驚いたとされている。

1998年5月19日に、海底に眠るヨークタウンの船体が確認、撮影された。船尾から海底に衝突したために、最後部は変形しているが、それ以外では大規模な破損は見られていない。舷側部には魚雷命中穴も確認されている。

アメリカ海軍航空母艦一覧
アメリカ海軍艦艇一覧
バトルステーション・ミッドウェイ - ミッドウェー海戦を取り扱ったビデオゲーム。主題であるミッドウェイ海戦において、プレイヤーは空母ヨークタウンを指揮して戦う。

2009年02月03日

和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏の子孫

細川氏の庶流の一つ。大外様ともいわれる。和氏・頼春の従兄弟の細川顕氏の子孫。顕氏の兄弟はそれぞれが武勇に優れ活躍したが、彼等は顕氏に先立ちこの世を去る。残った顕氏は讃岐、土佐などの領国化に励み実力をつけ、嫡流の和氏の死後、その弟の頼春と並んで細川氏の実力者となる。顕氏は観応の擾乱で活躍するも、やがて頼春と前後して死去する。顕氏の実子の繁氏は顕氏の領国を受け継ぎ、有力者として武功を積むも急死。その後は、和氏の子・細川業氏が後を継いで存続したが、讃岐など領国は頼春の子・頼之に押さえられ、以後は京兆家に従属的な立場となった。しかし、業氏は3代将軍足利義満、その子孫の細川晴経は13代将軍足利義輝の加冠の際の理髪役を務めるなど、有力な幕臣であった。
王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

和泉上半国守護家の藤孝の子・忠興が戦国時代末期の当主細川輝経の養子となり奥州家を継承した。

近世
肥後細川家(豊前小倉藩、肥後熊本藩主家)

旧細川邸のシイ
「旧細川邸のシイ」の説明盤和泉上半国守護家の出身の細川藤孝(幽斎)は、はじめ室町幕府15代将軍足利義昭を支えたが、のち織田信長に属して姓を長岡と改め、丹後国12万石を領した。 長男の忠興(三斎)は、紀伊雑賀攻めで初陣し、信長の部将として活躍。 本能寺の変では、妻・ガラシャの父・明智光秀に与せず、羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。 幽斎は古今伝授の継承者、忠興は千利休の高弟として、文化面でも重きをなした。

秀吉の死後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)らの争いが始まると、東軍につき、ガラシャは西軍の人質になることを拒んで自害、幽斎は丹後田辺城で2ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い、忠興は関ヶ原の戦いで活躍した。戦後は細川姓に復し、功により豊前小倉藩39万9千石を経て、忠興の子・3代細川忠利の時代に肥後熊本藩54万石を領し、幕末まで237年統治。明治に至り侯爵となる。

肥後細川家には藩主一門重臣として長岡内膳家と長岡刑部家があり、支藩としては新田(高瀬)支藩と宇土支藩があった。また、上卿三家といわれる世襲家老、松井氏(長岡佐渡、代々八代城3万石の城代)・米田氏(長岡監物)・有吉氏の三家があり、いずれも藤孝時代からの重臣である。なお、常陸谷田部藩は支藩ではなく、独立の藩である。

8代細川重賢は、藩校時習館の創設や殖産興業など宝暦の改革と呼ばれる藩政改革を行い「肥後の鳳凰」と称され、出羽米沢藩の上杉鷹山や紀伊紀州藩の徳川治貞(紀州の麒麟)とともに江戸時代中期の三名君とされる。熊本藩では江戸時代を通じて百姓一揆等が殆ど見られず農民は豊かであったとされるが、藩財政は厳しく、江戸・大坂の大商人からの借金に対しては何度も踏み倒して貧乏細川と嫌われている。

国宝保存会会長を務めた16代細川護立は「美術の殿様」といわれ、細川家伝来の多数の美術品や自らの収集品などを収蔵した財団法人永青文庫を開設している。近衛文麿の首相秘書官であった17代細川護貞は戦時中政治的活動も行い『細川日記』を残している。護貞は美術、華道、茶道の愛好家としても知られる。

護貞の子・18代細川護熙は熊本県知事を務めた後日本新党を結成し、1993年(平成5年)に内閣総理大臣となり非自民党連立政権を成立させた。その弟で近衛家を相続した近衛忠煇は日本赤十字社社長。

細川(長岡)内膳家
関ヶ原の戦いの後、忠興は徳川家との関係を重視し、警戒を解くために嫡男・忠隆とその妻・千世(前田利家の娘)の離縁を命じた。これに反発した忠隆を廃嫡・勘当、家康に人質として差し出していた三男・内記(忠利)を跡継ぎとし、徳川家への臣従の意思を表した。  忠隆は長岡休無と号し京都に隠居していた祖父・幽斎の許に身を寄せるが、幽斎死去後には幽斎所領6千石を基に扶持米3千石が給されることになった。余生を数寄者として京都で過ごした休無の死後に、後妻・喜久との間に生まれた長岡忠恒・長岡忠春は肥後熊本に招かれ、細川綱利から3千石ずつを与えられた。忠春の子・忠季が計6千石を継ぎ、子孫は代々一門首座に列した。家紋は細川九曜紋のほかに、ガラシャ出自を偲び明智氏の土岐桔梗紋を裏紋とした。明治時代に細川姓へ復し、男爵を授爵した。江戸時代の藩主の御茶屋で明治時代には内膳家が住んだ熊本郊外の砂取邸跡は水前寺江津湖公園の一部(熊本県立図書館庭園)として整備されている。歴代墓地は熊本市島崎3-24で、政治評論家細川隆元とその甥細川隆一郎は内膳家牧崎分家の出である。

細川(長岡)刑部家
忠興の五男・刑部少輔興孝が2万5千石を与えられて興す。代々「長岡刑部」か「長岡図書」を名乗り、家禄1万石。明治時代に細川姓へ復し、男爵。刑部家が熊本郊外の子飼に設けた下屋敷(旧細川刑部邸)は県の重要文化財に指定され、現在は熊本城三の丸に移築・公開されている。

高瀬細川家
肥後熊本藩の支藩・新田藩3万5千石の藩主。細川光尚の子・細川利重から10代。江戸鉄砲洲に住み、幕末に肥後高瀬(熊本県玉名市)に移ったため高瀬藩とも言う。本家6代の細川宣紀は利重の子。

宇土細川家
肥後熊本藩の支藩・宇土藩(熊本県宇土市)3万石の藩主。忠興の四男・立孝の子の行孝から11代。5代細川興文は本藩の細川重賢と協力して藩校温知館の創設や水道による農地灌漑・殖産興業に努めるなど藩政改革を行い、外様支藩主ながら幕府老中任用も議せられた。本家10代の細川斉茲、12代の細川斉護は宇土細川家の出身である。

常陸谷田部細川家
常陸国谷田部藩(茨城県つくば市)1万6200石の藩主。細川藤孝の子・細川興元より9代。谷田部藩は熊本藩の支藩ではなく独立の藩である。熊本藩が室町時代の奥州家の系譜をひくのに対し、和泉上半国守護家の系譜を継承する。[要出典]

その他の支流・庶家
庶家一覧

上野氏
長岡氏
上地氏
天竺氏
西内氏
十市氏
綾氏
小神氏

系図
太線は実子、細線、斜体の字の人物は養子。
             義清
             ┃
             義実
             ┃
             義季
             ┣━━┓
             俊氏 義俊
          ┏━━┫  ┣━━┓
          頼貞 公頼 俊氏 宗義
 ┏━━┳━━┳━━┫  ┣━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 皇海 定禅 直俊 顕氏 師氏    頼春                                        和氏
    ┏━━┳━━┫  ┣━━┓  ┣━━━━━┳━━━━━━━━┳━━━━━┳━━━━━━━━━━━━━━┓  ┏━━╋━━┳━━┳━━┓     
    繁氏 政氏 業氏 氏春 信氏 頼有    詮春       頼之    頼元             満之 業氏 清氏 家氏 頼和 将氏
    ┃     ┃  ┃     ┣━━┓  ┃     ┏━━┫              ┏━━┳━━┫  ┏━━┫     ┃
    祐氏    満経 満春    頼長 頼顕 義之    基之 頼元             基之 満久 頼重 頼夏 正氏    義和
    ┃  ┏━━┫  ┣━━┓  ┃     |  ┏━━┫  ┣━━━━━━━━━━━┓        ┃     ┣━━┓ 
    信氏 顕経 持経 満師 俊春 持有    満久 教久 頼久 満元          満国       氏久    経氏 頼氏
          ┃  ┃  ┃  ┣━━┓  ┣━━┓  ┃  ┣━━┳━━┓     ┃        ┃     ┃
          成経 持親 安氏 教春 常有 持常 教祐 持久 持之 持元 持賢    持春       勝久    泰経
          ┃  ┃     |     |  ┃  ┃  ┣━━┓  |     ┣━━┳━━┓  |     ┃
          尚経 成春    常有    成之 成之 勝信 勝元 成賢 政国    教春 政国 賢春 政春    仲泰
          ┃  ┃  ┏━━╋━━┓  ┣━━┓  ┃  ┣━━┓  ┃     ┣━━┓  ┃  ┣━━┳━━┓
          尹隆 尚春 元有 政有 頼常 義春 政之 政久 政元 勝之 政賢    政春 勝之 春倶 晴国 通政 高国
          ┃        |  ┏━━╋━━┓  ┏━━╋━━┓  ┣━━━━━┓  ┏━━┫  ┣━━┓
          晴経       元有 澄元 氏久 之持 澄元 高国 澄之 尹賢    澄賢 高基 尹賢 通政 通薫
          ┃        ┣━━┓  ┃  ┃  ┃ ┣━━┓  ┣━━┓  ┃        |
          輝経       元常 晴員 昌勝 持隆 晴元 氏綱 稙国 藤賢 氏綱 晴賢       通薫     
          |        |  ┃  ┃  ┃  ┃     ┃  ┃              ┃
          忠興       藤孝 藤孝 元定 真之 昭元    頼国 元賢             元通
                   ┣━━┓  ┃  ┃  ┃
                   興元 忠興 全隆 之照 元勝
(肥後藩主家)
           藤孝
           ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
           忠興                          興元
   ┏━━━┳━━━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓       ┃
   忠隆  興秋  忠利                  立孝      興昌
   ┃       ┃                   ┃       ┃
 細川内膳家     光尚                  有孝      興隆
           ┣━━━┓               ┃       ┃
           綱利  利重              興生      興栄
           |   ┣━━━━━━━━━━━┓   ┣━━━┓   |
           宣紀  宣紀          利昌  興里  興文  興誠
           ┣━━━┓           ┣━━━┓   ┃   ┃
           宗孝  重賢          利方  利恭  斉茲  興虎
           |               ┃   |       ┃
           重賢              利寛  利寛      興晴
           ┃               ┣━━━┓       ┃
           治年              利致  利庸      興徳
           |               |           ┃
           斉茲              利庸          興建
           ┣━━━━━━━━━━━┓   ┣━━━━━━┓    ┃
           立之          斉樹  利国     利愛   興貫
           ┣━━━━━━━┓   |   ┝━━━┓ ┝━━━┓
           斉護      行芬  斉護  利愛  利用 利用  利永
           ┣━━━┓   ┣━━━┓   |
           韶邦  護久  立則  立真  利永
           |
           護久
           ┣━━━┓
           護成  護立
           |
           護立
           ┃
           護貞
           ┣━━━┓
           護煕  近衛忠煇
           ┃
           護光

2009年01月20日

写真(しゃしん、photograph、photography)

写真(しゃしん、photograph、photography)

狭義には、穴やレンズを通して対象を結像させ、物体で反射した光および物体が発した光を感光剤に焼き付けたのち、現像処理をして可視化したもの。このとき、感光剤に焼き付けるまでを行う機器は基本的にカメラと呼ばれる。
広義には、電磁波、粒子線などによって成立する、弁別可能で存続性の高い像。
"photograph" という語はイギリスの天文学者ジョン・ハーシェルが創案した。「photo-」は「光の」、「-graph」は「かく(書く、描く)もの」「かかれたもの」という意味であり、合わせて「光の画」と訳せたという意見を必ずしも否定できない。しかしながら、日本では光が写すのではなく「光景を写す」という意味の造語が行われた。"photograph"から、略してフォトと呼ぶこともある。写真はデジタル写真の電子データである場合画像と呼ぶ。

光に対してレンズやカメラ等の機器を用いて、屈折、遮断等の光学的な操作を行い特定の波長の光に感光する物質(感光材)に照射し、感光させる。 感光させた感光材に対して、必要ならば現像等の可視化や定着等の感光能力の消失等の操作、焼き付けや印刷等により明暗の反転や拡大を行うなどして、最終的な画像を得る。 得られた画像は再び光を当てて鑑賞する事が可能である。

銀塩写真の原理
ハロゲン化銀は光を与えると銀イオンが還元され、イオン化されない銀ができる。感光して銀になってもそのままでは画像にはならない。感光した部分にある銀はごく少量のため、適当な量まで銀を増やす必要がある。これは現像液で行う。また、感光しなかった部分はそれ以上感光しては困るため、不要な部分の銀分子は取り除く必要がある。これは定着処理で行う。

ハロゲン化銀は感光するとき、波長を吸収する領域は青色によっている。そこで、可視領域にわたって感光させるために感光色素を用いて本来の吸収波長以外にも反応が起こるように設定する。まず感光色素が光に反応し、色素の電子がハロゲン化銀へ移動することによってハロゲン化銀の直接の感光と同様の変化が成立する。可視的な電磁波の特定の波長領域にのみ感光するようにし、三原色に対応するように感光層を重ねるとカラーフィルムになる。

半導体撮像素子の原理
CCDの場合、半導体撮像素子に入射した光子がpn接合に入ると電子が発生する。量子効率は銀塩写真のハロゲン化銀の場合よりもはるかに高いため、高感度である。発生した電子を走査することでAD変換器へ送る。VHS等、アナログ式の場合は電荷量に応じて信号の強弱を記録媒体に記録する。(シャノン=ハートレーの定理)
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

ビジコン管の場合、光電面に入射した光子によって電位が変化し、走査することで電位の強弱を記録媒体に記録する。

相反則と相反則不軌
基本的に写真の感光量は光の量(単位時間あたりの光の量×光が当たった時間)によって決まる。これを相反則という。ただし、感光量は入射した光の量にどこまでも比例するのではない。未露光部はベースフィルム以上淡色にはならないし、感光するハロゲン化銀は限られているから一定以上の光を当ててもそれ以上濃くならない。従って、光の入射量と画像の濃さをグラフにするとシグモイド関数のようになる。変化の中間部は直線的であり、この部分の傾きのことをガンマという。

露光時間が極端に短かったり長かったりする場合には、相反則が成立しないことがある。これを相反則不軌という。カラーフィルムでは更なる別の問題をも生む。色毎に相反則不軌の状態が異なるため、カラーバランスが崩れるのである。 長時間露光においてはまた別の問題がある。現在利用可能なデジタルカメラでは画像に熱雑音と製作不良から発生するランダムノイズが乗る。一部のデジタルカメラでは長時間露出する際のノイズを軽減する機能が付いている。非常に長い時間露光する場合、ノイズが最終的な画像に影響しないようにディテクターを低温で動作させる必要がある。ただしフィルムの長時間露光では、粒状性は変化しない。

なお、冷却することで長時間露光時の相反則不軌を低減できることが、経験的に知られている[要出典]。相反則不軌は天体写真を撮る時などに大きな問題となる。1977年頃には長時間露光時の相反則不軌対策や分光感度を調整した天体撮影用のフィルムが市販されていたほどである。